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温かな思い出。守られる者の安心感。そして、人を愛するということ。
あらゆることを教えてくれた兄は、少女にとって世界のすべてだった。
その禁じられた想いは、芽生えたばかりの女の性を捧げるほどに強く。
生と死が隣り合わせの戦いの中、少女はひたすらに兄を求めつづける。
兄妹の苦悩と、死をも超える永遠の愛──『妹姫』のもう一つの物語。

 想い人と毎日顔を合わせられる生活をようやく取り戻した私はというと、もう兄様の部屋や執務室をむやみに訪問することはなくなっていた。用もなく会いに行くのは一日一回だけ、口実をもうけて顔を見にいくのも一日二回までと決めて、私はきちんとその戒めを守った。兄様は食事は必ず一緒にとってくれるし、何かにつけて私のために時間を割いてもくれる。多忙な兄様と付き合うなら、それだけで満足しなければいけなかった。もちろん、子供のようにべたべたまとわりつくことも、朝晩の挨拶やお出かけ前後の接吻をするとき以外は、ない。
 私自身、学ぶことは山ほどあった。兄様の命が懸かっているのだからと、戦時中から引き続き聖杖の練度を上げていた。兄様の一生の仕事なのだから、政務について勉強する意欲も充分にあった。
 兄様にしてあげられることは何なのか、私はいつも考えていた。兄様のために役立つ力がほしかった。私の将来は兄様抜きには考えられなかった。兄様が望むなら、体も心も命も魂も、私のすべてを差し出すつもりだった。けれどそれは、そのまま私の願望でもあった。兄様が欲しい。体も心も命も魂も、兄様の全部を私のものにしたい。
 兄様が無事でいてくれさえすれば、もう何もいらない──そんな殊勝な決意をしていたのに、当面の危機が去ってしまうと、結局さらなる幸福を求めてしまう。生きている間に悔いが残らないよう愛し合いたい、と。兄様と少しだけ距離をおいたのも、兄妹の優しい触れ合いでは満足できなくなって、なんとか妹の立場から脱却し、大人の女性として見てもらえる人間になりたかったからだ。
 嫉妬や劣等感も湧かないほどに優れた、私の兄様。伝説の中でしかお目にかかれない、物語の主人公のような兄様。そんな人が、私を対等に扱ってくれる。ひとりの人間として尊重し、一番近くにいさせてくれる。大切だと、必要だと言ってくれる。そんな特権を享受しているというのに。人の欲には果てがないというけれど、私はまさにそれを実感していた。
 毎日最低二回ある兄様との挨拶──数秒の軽い抱擁の中、私はいつも意識して大きくゆっくり息を吸っていた。そこに漂うのは匂いというより香りだった。私が昔安心して包まれていた空気は、危険な陶酔で頭をくらくらさせる、かぐわしい媚薬になっていた。兄様の顔が近づいてくる段には思考がほとんど飛んでいた。その唇が額に触れると、あっというまに足の爪先まで官能が伝わって、全身が溶けてしまいそうだった。
 兄様と契りたかった。心だけでなく、体の深いところまで重ね合わせて一つになりたかった。自分が異常であることもその禁忌も自覚していたけれど、兄様さえ認めてくれるなら、その秘め事に大禍はないはずだと思っていた。大好きな兄様によこしまな衝動を抱いてしまう自分を責めたこともあったけれど、ここに至っては、それが私たちの愛を永遠のものにする誓いの儀式になるはずだと信じていた。
 もう私の気持ちは純粋ではなかった。兄様のすべてで愛してほしい。撓めた激情の堰を切って、その奔流に私を呑みこんでほしい。内に隠した牙で犯し傷つけてほしい。──私はその時を、怖れながらも切望していた。
 私は毎日、それほど長くない逢瀬の間、隠すつもりのない情愛と、尽きることのない想いと、抑えきれない欲動をもって兄様を見つめていた。兄様への愛を貶めるのは嫌だけれど、それは痴情と称されるべきものだと認めざるをえない。兄様が一番喜んでくれる話題は私に関することで、この頃の私の内面はさすがに口には出せなかったから、活気に溢れた城下町や緑を取り戻していく景色など、兄様が丹精している仕事の成果を、私はやけに熱っぽい表情で話すようになった。
 兄様の妹想いも尋常ではないけれど、それはかろうじて兄妹愛の範疇ではあった。恋人としての甘い言葉をくれるわけでもなく、私への触れかたも兄妹の親愛表現の域を出ず、あくまで理性的な距離を保っている。二人きりのときだけ無意識にこぼれる笑みはあるにしても、基本的な態度は周りに人がいるときと大差ない。軽薄な恋の囁きなど、もちろん兄様に期待はしないけれど、自分の想いがはちきれそうなほどに育ってしまうと、昔と変わらないその振舞いはどうしても冷たいものに思えてしまう。
 そう──自分に性の欲求が芽生えてからは、兄様の謎が相当深まることになった。私を狂的に愛しているくせに、もっと近づきたいとか触れたいとは思わないのだろうか。肉親の間には性の接触を回避する本能があるらしいけれど、私たち兄妹に限ってはそれも当てはまらないはずだった。幼年期はともかく、今の私たちを結びつけているのは理性による部分が大きいし、そこから培ってきた愛情は、本能などより遥かに強いのだから。自己弁護するつもりはないけれど、私の恋心が肉欲にまで高まったのも、男女の愛を得るにはそこを越えなければいけないと、考えた末の結論が下地にあるからだ。
 さすがの兄様も、本物の神様や天使でもあるまいし、生まれながらに欲望を超越しているということはないはずだった。一度だけ熱情を告白してくれたあの日には、四肢を撓めて獲物を狙う獣のように、静かな激しさで私を求めていたのだ。今にも襲いかからんばかりだった兄様の言葉には、性的な仄めかしすら含まれていた。あれが兄様の思春期の迷いだったとは思えない。あそこまで明確な意志を、迷いと呼べるだろうか? 兄様は決して生きる道を曲げないから、今もあの狂恋を褪せることなく抱きつづけているに違いないのだ。
 途方もない向上心を満たすことで、欲望が残らず昇華されているのだろうか。生真面目などというものではない。禁欲とも違う。長年心掛けてきて、今やそれが常態となっている鋼の自制心。常識では考えられない有りようを、兄様は特に意識する様子もなく自然にこなしていたのだ。
 そんな兄様の愛の結論とは何なのだろう。たとえ心の奥底にどんな欲望を秘めているとしても、大切な妹姫を穢すことは絶対しそうにない人。ただし今の兄様なら、他でもない私が望めば、体の一番深いところに一生消えない印を刻むことさえしてくれるはずだった。彼に動いてもらうには、私のほうから浅ましく迫るしかないのだろうか。
 妹の渇望など一目で読みとれるはずの兄様を押し留める枷は何なのか、私は考える。
 肉親という絆は、生を享ける前から完成していると兄様は言った。その絆にのみ依存して生きようとするのは、自身の可能性を閉じこめることだとも。
 たしかに、兄様への私の気持ちを、城のほとんどの人間は幼児性の発露としか受け取らない。彼らは兄様に侍(はべ)る私を見るたびに『大丈夫かこの娘は』というような呆れ顔を向けてくる。兄妹仲の良いことが微笑ましい年齢でもなくなった今、私たちの関係は進歩のない、精神の自立を阻むものだと傍目には映るのだ。
 兄様以外に肉親がいない私は、彼らの嫌悪感は想像するしかないのだけれど、近親愛を忌まわしいものとする感覚は普遍的で、人類共通といっていいものらしい。肉親とは結婚できないという、世界で最も広く執かれている禁制を鑑みてもそれは明らかだ。血の繋がりを持つ者だけに許される心、自分に近しい者しか容れない精神──それを望ましくないとする、根深く固着した観念が彼らにはある。
 私たち兄妹の想いにも、眉を顰める人がいるだろう。罵声を浴びせる人がいるだろう。けして認めない人がいるだろう。──異分子は共同体から石もて追われなければいけないのだ。たとえそれが王だとしても。
 それでも──私たちがほんとうに必要とし、心から愛せるのはお互いしかいない。私は兄様を完璧には理解できないけれど、それだけは確かだ。兄様が王の義務抜きで気づかい、無条件の愛情を注げるのは私しかいない。兄様の心身を支え、癒すことができるのも私しかいない。
 私は兄様の生き方に共感するから努力精励できる。兄様がいなければ、私はもっと怠惰な毎日を送っていた。兄様の正しさは誰もが認めるところなのだから、それを一番の指針にして悪いことはないはずだ。
 兄様は私が生まれて初めて認識した異性であり、その邂逅は私の原体験だった。ずっと、唯一の運命の人だと信じてきた。誰よりも近しい心と体をもつ、兄妹という絆が何よりの証だ。最初の人の許に留まることが罪となるのなら──永遠を求め、変化を拒むことが罪となるのなら、私は誇りをもってその罰を受けようと思う。最も好ましい人から離れ、外に拠り所を求めることが道徳にかなうというのなら、喜んで悪に堕ちようと思う。傍にいてくれた時間も、血の繋がりも、すべてを含めて兄様を愛しているのだから。
 兄様もまた、そんな私よりずっと強い覚悟で愛してくれているはずだった。俗人に何を言われようと、泰然として自分の道を貫ける人でもある。情熱だけで安易に契るわけにいかないにしても、兄様があと一歩禁忌に踏みこんでくれない理由が、私にはわからなかった。
 いつになったら兄妹の垣根を越えられるんだろう。兄様はこれから私とどうするつもりなんだろう。一度きちんと話し合わなければと、そんな焦燥にかられてもいたけれど、想いの丈をはっきり打ち明けてしまうと後戻りはできないのだし、そのうえで兄様に拒絶されるかもしれないと思うと、怖くて何も言い出せなかった。私は世界中から非難されても耐える自信はあるけれど、兄様に避けられるのだけは嫌だ。
 兄様が動かないのなら、まだ時期ではないのだとも思えた。納得はできなかったけれど、たしかに私はあらゆる面で未熟だったし、とにかく兄様の心がわからない以上、自分の成長を待ちながら、心身を鍛えながら、我慢して待つしかなさそうだった。そのときが来れば、一番望ましいやり方で契ってくれるに違いないのだから。兄様は私を苦しめることも多いけれど、それ以上の幸せをくれる人なのだと、それだけは絶対に信頼できた。
 兄様を見つめる時は、私への欲望の片鱗がどこかに表れないかと心待ちにするようになった。兄様の鉄仮面は年期が入っているけれど、生まれてこの方ずっと愛してきた私は、どんな感情の機微も、ほんの一瞬の表情さえも見逃さない。
 兄様は期待している熱情を表さない代わりに、いつもは見返して微笑んでくれる顔を、時折ひどく悲しそうに伏せることがあった。愛欲に潤んだ瞳の妹姫を情けながって、というわけではなく、その翳りからはもっと深い絶望や、悲愴のようなものが感じられた。愛染や狂恋よりなお強く心を覆うもの──私はそこに、私たちが一線を越えられない理由を見るような気がして、兄様にそんな表情が浮かぶたび、会話を不自然に途切れさせてしまうのだった。より凝縮された時間の中、私たち兄妹は嵐の前の凪のような、静かな緊張を抱いて過ごした。